率直に言って、スーザン・ボイルの歌声は僕の心にはまったく響かなかった。YouTubeの音質が悪いからかと思って、いくつか音質のいいのを探してみたりしたけど無駄だった。声はよく出ていると思うけど、声にあまり表情を感じないし、何より、彼女が背負ってきたものの「深み」を彼女の歌声から聴きとることが僕にはできなかった。好みの問題もあると思うけど。
これは実は、全部「やらせ」なのじゃないかとまで思った。「やらせ」も有りうると思って見てみると、舞台裏の様子や、審査員や聴衆の表情の変化の撮影など、あまりにもうまくできすぎていて怪しい気もしてくる。審査員のコメントは台本通りで、サクラの観客がいるのかもしれない。47になるまでキスもしたことが無いというオバサンが悲願の大スターになるという「感動的ストーリー」にはめられているだけのようにも思えてくる。
しかし少なくとも、YouTubeなどで多くの人がこのビデオを見て彼女の歌声を称賛しているのは事実だ。彼女の歌声に酔いしれている人がたくさんいる。でも、ヤラセと言わないまでも、感動的なストーリーの演出と、聴衆・審査員のすべてが瞬時に陶酔してしまうという映像によって、多くの人が自分の耳で評価する以前に流されてしまうということもありえる(曲のイントロも重要)。だから、このストーリー・演出なしでこの歌声を聞いたとしたら(あるいは彼女の容姿がもう少し美しければ)、果たしてこれほど多くの人がスーザン・ボイルに感動できただろうか、という問いは検討する価値があると思う。
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YouTube動画 スーザン・ボイル(Susan Boyle)奇跡の美声?

こういうことは音楽業界ではよくあることだ。メディアの宣伝工作によってそれほどでもないものが売れるということはある(だからこそ宣伝に金をかけるのだ)。また、歌声の良さよりも、曲の歌詞や、その背景となるストーリーで持ち上げられるということもあるだろう(「嘘」「やらせ」は問題だけど、そうでなければ別にかまわない)。最近の日本での例を挙げるとすれば、「千の風になって」の秋川雅史などがその典型だろう。ボーカリストとしては(クラシック歌手としてもポップス歌手としても)あまり評価できないけれど、曲(歌詞)の素晴らしさで話題となり、話題が話題を呼び、ルックスなども手伝ってすごい歌手だという地位を確立した。
歌は歌だけで評価されるべきだという考え方はおかしいのだろう。人間性や背景の物語で人の心をとらえるものも優れているのだ。
ただ、「スーザン・ボイル、奇跡の歌声」と言われると、それはちょっと違うのではないかと馬鹿正直な僕は言いたくなる。もしかすると、僕が彼女の歌にピンと来ないのは、僕自身の容姿がたいして良くないからかもしれない。つまり、僕には「容姿の良くない人間には期待しない」という思い込みが無いから、驚きが生じなかったのかも。むしろ、容姿のさえない人ほど何かしらやらかしてくれるものだと僕は思っている。
だから、YouTubeなどであまりにも大きな話題になっていることや、メディアも彼女を大きく取り上げている現状に、ちょっと違和感を覚えてしまう。「人は見かけによらない」なんていう当たり前すぎるメッセージでここまで盛り上がってしまう世界。この事態に本当にハッピーに浮かれていていいんだろうか?