先日ご紹介した「
ルーズ・マイ・フェイス・イン・ユー」の中で、スティングは「
科学や進歩や宗教をもはや信じない」というようなことを歌っている。そういったものへの信念を失っても「君に対する心は失わないよ」というラヴ・ソングになっているのだ。

科学や進歩をもはや信じないという(一見屈折した)発想は、この曲の前ふりにすぎないのではあるけれど、これはスティング自身のある種の悟りといっていいのだろう。スティングは、ブラジルの熱帯雨林保護のキャンペーンなどもやっているけれど、この歌詞と彼の行動にはつながりがある気がする。
スティングに言われるまでもなく、科学や進歩を無条件に信奉するのはもはや時代遅れだと言っていいだろう。技術や科学の発展によって人間の生活は便利になったけれど、その発展の裏側では資源の浪費や公害、地球規模の環境破壊などが起こってきた。生活が発展すれば浪費される物の量も増えるし、生活が豊かになって人口が増えれば地球に大きな負担がかかる(だから、
先進国でおこりつつある人口減少は喜ばしい)。「科学」や「進歩」は大きなジレンマをかかえてしまったことになる。
科学・技術の発展が我々に新鮮な驚きと喜びをもたらしてくれたことは確かだ。しかし、もう今以上に便利になったり、今以上にスピード・アップする必要はないような気もする。そう考えると、生活を発展させるための科学・技術の存在意義は低くなってしまったようにも思える。
にも関わらず、最近の日本では、生活の
「役に立つ」科学を求める風潮が強いようだ。国公立大学の法人化なども実施され、学問全体が生活に応用できるような技術や「儲かる」学問に偏ってしまう恐れがあると言われている。むしろ、そろそろこういう「科学→発展」という発想はやめるべきじゃないかと僕は思う。
科学というのは本来、芸術と同じで創造的な活動だ。ここでいう「創造的」というのは、なにかの役にたつものを作るという意味ではない。なにか新しい発想が生み出される喜びに支えられているという意味で、科学も芸術も創造的な活動なのだ。コペルニクス、
ガリレオ、ダーウィン、ウェゲナーといった科学者による偉業はみな「壮大な発想の転換」や「誰も思いつかなかった発想の獲得」によるものだ。彼らの研究が間接的に今の我々の生活に役立っている部分はあるかもしれないが、彼らは決して「役立つことをしよう」なんて動機で研究をしていない。未知のものがわかってくるわくわく感、知的好奇心を満足させてくれる面白さ。彼らの偉業は、そういったものを追い求めていった結果だったはずだ。


科学に「便利さ」などを求めすぎるのはやめた方がいいと思う。役には立たないけれど純粋におもしろい科学が出てくれば、それはそれで喜ばしいことなのだと思う。少なくとも、面白くなりそうな学問が「役に立たない」という理由で消されてしまうようなことは起こってはいけないだろう。人類が今以上に「繁栄」することよりも、「おもしろさ」の方が重要だという気がするのだ。それはきっと、人類の心の豊かさにもつながりうるのだから。