高村薫
「いじめは昔からありますが、近年の日本のいじめは昔と中身が違ってきていると思います。集団生活というものは、自由競争の中で序列化が起きるもので、みんなが平等、並列というのは幻想なんですが、学校とは、そうした厳しい現実を前提にしながらも仲良くしようという社会生活を訓練する最初の場だったはずです。貧しくても、学校では、勉強さえすれば一番になれ、スポーツが出来れば尊敬もされた。学校が楽しく、救いの場になる最低条件は、家庭環境にかかわらず自由な競争があることです。
なのに、学校では今、その訓練が放棄されています。平等、並列を出発点にして、自由競争を排除し始めました。競争で発散されていたエネルギーが行き場を失い、ゲーム感覚の憂さ晴らし、いじめが始まった。これが近年のいじめの特徴だと思います。」
これには驚かされた。高村氏は「自由競争が排除され、発散されるエネルギーが行き場を失った」ことが最近のイジメの原因だと言うのだ。「教育現場にもっと自由競争を!」と言いたいらしい・・。この人はいったい何を根拠にこんなことを言うのか?
学校教育が自由競争を排除しようと努力してきたことは事実だろう。しかし、教育がどんなに努力しても自由競争は起こっているのである。自由競争というのは、いたる所にごく自然に発生するようなものだ。教育はそれが過剰にならないように抑えることしかできないのだ。とくに近年は「勉強」ができるかどうかという競争だけが激しくなっていることが問題なくらいだろう。「自由競争が排除され、発散されるエネルギーが行き場を失った」なんてこと、あるはずがないのである。
それに「学校が楽しいものであるためには自由競争が必要だ」という高村氏の発想は、あまりにも楽観的な「勝者の発想」だろう。激しい自由競争のためにかえって追い詰められる子が出てこないと言い切れるのだろうか?さらに、イジメ自体が自由競争の歪んだ現われ方ではないかとすら思えるのだ。
自由競争は自然に起こるものだ。あえて奨励する必要は無いし、すでに子どもたちは「習い事」や「塾」での競争でへとへとなのではないだろうか。どうしてこの期に及んで学校での自然競争を「奨励」する必要があるのか、理解に苦しむ。
うーん・・・子猫殺しの坂東眞砂子、「石田衣良の白黒つけます!!」の石田衣良に続き、小説家に咬みついてしまったが、みんな直木賞作家というのが共通点・・・。
(この絵は記事の内容と関係ありませんが、落ち着きますね)
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校長もピンキリです。
校長に気に入られる教師が、すべてよい教師とは限らないのに。
浅はかな人間ばかりで困ります。
うーん・・校長が評価するようになるんですか・・。校長のカラーによって学校の雰囲気も変わるんでしょうかね。そんな重大な権限を校長に与えていいのかどうか・・・って心配してしまいます。
あ、始めまして綾乃庵さんの所から飛んできましたオッサンです。国連勧告は簡潔ですが的を得たものだと思うのですが、どうも最近、それと逆行するような動きが目立つ事に危機感を抱いております。
こういう国連勧告が98年にすでに出されているんですね・・。結局これらはほとんど改善されず、むしろ逆行してしまいそうな雰囲気がありますよね・・。